皆、さいごは骨だけになるということ。

誰しもが、最後は骨だけになるのだと、
当たり前のことを心底思いました。

どんなに大切な人でも
命がなくなってしまったら
(一般的には)その肉体をそばにとどめては置けなくて
告別式が終わり、出棺となると蓋は閉じられる。
そして、火葬を経て骨上げ、骨だけとなる。

日常を過ごしていると
皆、肉体を持って生きていて
肉体を持った人間がそこら中に溢れていて
お互いに触れあったり、会話したりできて。
それが生きているということなのだけど
骨だけになっても、やっぱり
そこにその人が「在る」と感じる。
死んでいるけど、生きていると思う。
根元では変わらないと思う。
言葉を交わすことはできなくても。

思い出の中で生き続ける、とか
そんな紋切り型の言葉が
「ああ、まさにそれだ」って、実感を伴って浮かびます。
(決まりきった言い回しって、それだけ多くの人が実感した証で。不幸にも飽和してしまった言葉なんだな)

たましいのこと、とか
そこまでは今は思い至っていないけど
とりあえず今思うのは、
かりそめの姿である、このからだを
思いのままに、ちゃんと使い切りたいということ。

仕事も、日常の営みも、趣味も、勉強も
家族や友人との関わりも全部
ある意味で人生すべて「ごっこ遊び」なのかもしれないけど、
それならそれで、
おもいっきり「ごっこ遊び」を楽しもうと思います。